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oh!chanomart(オチャノマート)のブログ

最新号4号が現在発売中!オチャノマ+アートでオチャノマート。お茶の間で親子で作れるアート作品とそのレシピを紹介する雑誌。毎回「木で作る」「紙で作る」など素材を特集。他にも、特集にまつわるイラストレーターや、ミュージシャン、さらにはおじいちゃんやおばあちゃんの作品も紹介。子ども達の作品は美術作家の白井裕子が指導。

カップラーメンのフタは、とる派?のこす派?

いきなりですが、カップラーメンを食べるとき、
フタを全部取っちゃう派ですか?
それとも、カップのフチにつけたまま残しておく派ですか?

どうやら、最近はフタをつけたまま食べるというのは、
だらしなさの象徴としてとられているらしいのです。
「フタくらい取れよ」「めんどくさがるなよ」と。
と思われてるらしいのです。

でもそういうことではないんです。
これはだらしないとか習慣の問題ではなく、
実はイメージの刷り込みだ、という説を
僕はとなえたいと思います。

そこでちょっと調べてみました。

日清のHPを見てみますと
カップヌードルの発売当時の写真では、
銀座でフタを付けたまま食べる女性の写真がありました。
また、売り上げアップに影響したと言われている、
1972年の浅間山荘事件で警察官がカップヌードルを食べている
当時の写真を見てもフタを付けたまま食べています。

この事件はテレビで1972年の2月中旬に
生放送され全国の人々が注目していたので、
カップヌードルを外で食べる警官の姿が、
とてもおいしそうに見え、
それが記憶に残っている世代が一定数存在すると思われます。

発売当時のイメージとしては、
外で歩きながらでも食べられる新しいラーメンという
売り方だったみたいです。
ですから、歩きながら食べるにはフタは付けたままで
いいってことなんだと思います。
発売当時の広告などにも
フタを付けたまま食べている写真や映像があります。

ということで、だいたい40代から上の世代には
その写真や映像のイメージがずっと刷り込まれているのだと思います。
そのイメージを引きずったまた
室内においてもフタを付けたまま
カップラーメンを食べ続けているんだと思います。

だから、おじさんがフタを付けたまま食べていても、
ちょっと大目にみてほしいんですよね。
イメージの刷り込みですから、
特に深い意味はないんですよ。

録画番組バイキング時代

年末年始に予約録画して撮りためた番組を見ている方も多いと思います。
この録画についてちょっとした悩みがあるんです。
子どもが、録画した『妖怪ウオッチ』や『仮面ライダー
なんかを見るんですが、とにかく繰り返し繰り返し
何度も何度も同じ番組を見ちゃうんですよ。

よくないな〜と思いつつ、
ダメ、と言う理由がいまいち思いつかないんですよ。

好きなものだけをいつでも食べれる、
バイキングを毎日食べているような感じで、
ちょっと親としては罪悪感があるんです。
(今ではヴュッフェスタイルといいますが、
世代的にバイキングの方がしっくりきます)

好きな唐揚げやデザートばかり食べさせているような感じというか。
自分の好きなもの以外に出会う機会が
減ってしまっている気がするんです。

自分の興味以外のものに出会う経験って
昔は自然とできていたと思うんです。
僕のような40代の親世代は小学校高学年くらいまで、
録画なんてものはできませんでしたし、
テレビも1個しかないから、
親や兄弟が見ているものを自然と目にしていたわけですよね。
そうすると、アニメだけでなく、
お父さんが見ている野球や相撲なども自然に目にして、
いろんなものに興味をもつことができたんです。

そういう経験を子供にもさせたいのですが、
録画ができちゃうから、
「見たい!見たい!」ってだだをこね出すと、
結局こっちが折れちゃうんですよね〜。
だって大人も大河ドラマとか録画で見てるわけですから、
ダメっていう理由が見つからないんですよね〜。

なんですけど、『妖怪ウオッチ』を見ているあいだは
静かにしてくれているので、
家事がはかどって助かるっちゃあたすかるので、
悩むところなんですよね。

紅白の「シン・ゴジラ」は「おかあさんといっしょ」といっしょだったのです。

遅くなりましたが、あけましておめでとうございます。

ところでみなさん、大晦日にNHK紅白歌合戦は見ましたか?
いろいろな演出がありましたが、シン・ゴジラが登場した場面は見ましたか?
不思議なデジャヴ感の後に、妙に納得してしまいました。
あれこそ、ザNHK演出だと思うんです。
シン・ゴジラ」は「おかあさんといっしょ」といっしょだったのです。

昨年の紅白のゴジラの演出をごく簡単にまとめると、
ゴジラが出現し、NHKホールがある渋谷方面に向かっている。
それを防ぐためには「声量・メロディー・感動を兼ね備えた良質な歌」が効果的。
だから、紅白の歌を聞かせて撃退しよう。
名付けて「渋谷紅白迎撃作戦」、というもの。

なんか、どこかでこんな感じの見たことあるな〜。
しかも、映画とかじゃなくて、コンサートだったな〜。
子供と見ていた番組のような気がするな〜。
と考えていると、思い当たりました!
おかあさんといっしょのコンサートの演出と一緒なんです。

おかあさんといっしょのコンサートでは、
とにかく、力を合わせて歌をうたって、
敵をやっつけるというのが、定番なんです。
例えば、
「おもちゃを横取りする魔王をやっつけるためには、
みんなの力を合わせる歌声が必要だから、
お兄さんお姉さんと歌おうよ〜!」みたいな。
それが、地球を元気にするためだったり、
不思議な地図に吸い込まれたから元の世界にもどるためだったり、
目的はその時によって変わるんですが、
とにかくみんなで力を合わせて歌えば、
だいたいのことは解決するんです。

なるほど、今回はそれをゴジラに置き換えたということですよね。
子どもから、ご年配の方まで楽しませようと思ったら、
子ども番組の基本に返って、わかりやすく。ということなんだと思います。
でも、自分の70代の父親なんかはなんのことかよく分かっていなかったかもしれません。
そもそも、歌で子供からご年配まで楽しませようとするのが
もう無理な時代になってきてますよね。
そこをなんとかがんばってみたけど、ちょっと空回りしましたね。
長谷川博己をはじめ主要キャストも勢揃いで、
お祭り感もありましたし、セリフや音楽も映画そのままだったし、映像もかっこよかったしで、
個人的には映画も見たのでけっこう楽しめたので、おしい!もったいない!と思いました。

すごい大好きなマニアックな映画の良さを、田舎の父親に熱く語っても、
まったくピンと来て無くて、しょうがないから黙ってビールを飲むしかない。
みたいな、そんな気まずい空気がちょっと流れてしまいました。
日本の多くは田舎で紅白を見るんだから、
田舎のお父さんが機嫌良くお酒が飲めるような歌を流してくれれば
それでいいよっていうのも正直ありますね。
地方はやっぱりまだまだ家父長制度が強いですから、
お父さんの機嫌ってけっこう大事なんですよね。
「いよっ!サブちゃん」なんて言って機嫌良くしてくれれば、
お母さんや子供や孫達も楽しく過ごせるってもんなんです。
最近の紅白は若者に寄りすぎて微妙な空気が流れているっていうのは、
田舎に帰省して大晦日を過ごす家庭ではけっこうな、あるあるじゃないでしょうか?

他に個人的には真田丸が盛り上がったんだから、
堺雅人をはじめ、大河で活躍した俳優陣をもっと出演させてほしかったとか、
いろいろ思うところがあった2016年の紅白歌合戦でした。

『真田丸』かっこ悪いことはなんてかっこいいんだろう

今年の個人的に面白かったエンタメといえば、

いろいろな映画や音楽ありましたが、

なんといっても一番好きだったのは大河ドラマの『真田丸』でした。

 

どこが好きだったのかと考えてみると、

とにかくかっこよく描かれた人物が一人も登場しなかったところだと思いました。

大河ドラマの時代劇でかっこいい人物が一人も出てこないなんて、

おかしいだろう、と思うわれるかもしれません。

でも、主人公の真田幸村からして、

父昌幸が偉大すぎてその壁を越えるのに苦労しましたし、

兄の信之も父と才能のある弟に翻弄されてばかりでした。

逆に考えれば、歴史上の人物でもそうそう人生がうまくいくわけがなく、

四苦八苦しながら生きていたんだとも思えます。

そこが『真田丸』に共感し、好きになった理由だと思います。

それぞれのキャラクターが右往左往しながらも一生懸命生きている姿が、

人間臭くてを応援したい気持ちになりました。

つまりかっこ悪さこそがかっこよく見えてくるドラマだったのです。

昔、早川義夫のアルバムで『かっこいいことはなんてかっこ悪いんだろう』

というタイトルがありましたが、今回はその反対で

『かっこ悪いことはなんてかっこいいんだろう』といえる作品でした。

 

個人的には、

秀次の新納伸弥さん、こう役の長野里美さん、

そしてオフロスキーこと小林健作さんが、

大抜擢されて活躍したので、これからも応援したいです。

 

今年初めて大河ドラマを最後まで見たのですが、

1年間をとおしてドラマを見るという面白さは、

普通の季節ごとのドラマや映画をみるのとは訳が違うということが

よく分かりました。

 

来年からも、ぜひ大河ドラマを見ていきたいと思います!

紙にまつわるアーティスト 引地渉さんとの出会い

紙にまつわるアーティスト 引地渉さんとの出会い
今回の紙にまつわるアーティストのコーナーで紹介した

イラストレーターの引地さんとの出会いはかれこれ10年以上前になります。

当時小田急線の経堂駅でアートフェスティバルが開催されており、

そこに僕も出展しておりました。
(オチャノマートの前身のような、ミニコミのようなものです)

そのイベントで私のブースの近くに出展していたのが引地さんでした。

当時、私はデザイン事務所をやめていて、デザインを仕事にもできず、

アルバイトをしながら、自主制作のミニコミを作っていました。

なんの立場も無い自分に普通に接してくれて、
それがとても嬉しかったのを覚えています。

そこでお話したのがきっかけでそのミニコミに
イラストをお願いしました。

その後、個展などにお邪魔したり、
デザイン事務所として独立してからは、

何度かお仕事をお願いしたりして、
いつもすばらしい作品を作っていただきました。

引地さんの作品の魅力は何と言っても、
「紙」の素材の魅力です。

コラージュを作品にする人はたくさんいますが、

引地さんのような作品はなかなか見たことがありません。

インタビュー記事でもプラモデルの影響があるとおっしゃっていますが、

プラモデル的な要素を平面に置き換えただけではない、

奥行きというか、画の中に物語りを感じることができます。

また、近未来や、異世界などを描いているのに、
ノスタルジックな感じを受けるのも特長の一つです。

故郷の山や森などから影響を受けてもいると思いますが、
技術を積んだからといってできることではないと思います。

イラストという仕事だけには収まらない、
引地さん独特の芸術的感覚が表現されているのだと思います。

書店には引地さんが手がけた表紙の書籍がたくさんあるので、
読書を楽しむと、
同時に表紙の絵もよく見ていただければと思います。

また、これを見た子ども達が影響を受けて、

紙で何か作ってみようと思ってもらえたらこんなに
嬉しいことはありません。

次回の引地さんの個展などの時には、
ぜひみなさん足を運んでみてください!

引地渉さんのサイト

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『すべては平和のために』感想 〜ひとりで旅立つスタンドバイミー~

『すべては平和のために』の感想を書いてみました。お時間のあるかたは読んでいただけると嬉しいです。


『すべては平和のために』感想 〜ひとりで旅立つスタンドバイミー~

 この物語では現代の中東の問題や、テロの問題、沖縄の問題、戦場ジャーナリスト、暴力などたくさんの問題が比喩としてたくさん読みとれます。しかし、その入口は青春小説なのだと思います。中高生のみなさんに読んでもらうために、ひと言で表せば「ひとりで旅立つスタンドバイミー」といえるかもしれません。

 あらすじはおおよそこのようなことです。  国と国の戦争はなくなり、各地で「紛争」が絶えず「平和創設」の下、企業が調停を行うようになった世界、という近未来の物語。ある南国の小国で独立紛争が起こり、その交渉役に突然指名されて女子高生の和菜は企業の調停員の一人として現地に旅立つことになった。

 

 今回、他の青春小説と一番違うのが「ひとりで旅立つ」というところです。普通、青春小説は仲間と助けあったり、刺激しあったりしながら困難に立ち向かうのが定番です。『スタンドバイミー』もそうですし、過去の濱野さんの過去の作品でもちゃんと仲間達がいました。しかし、今回は困難に向かうのは和菜一人。(導いてくれるジャーナリストの女性も登場しますが、助けてくれる仲間は登場しません)
 ということは、「一人」で立ち向かうことに意味があるのです。つまり、困難が降りかかった時、みんながとか、会社がではなく、一人一人がどう考えて、どう行動するかが大事なんだといっているのです。
 また、人生の大事な決断は他でもない自分一人でしか決められないんだとも言っているのだと思います。さらには、大きなもののためにではなく、個人の人生を大切にすることが平和に繋がるというメッセージにもとれるのです。


 次に「スタンドバイミー」の部分です。お話はまったく違いますが、共通するところがいくつかあります。
 ひとつは、大きな自然が登場するということです。和菜が向かったマナトという地域は、本の表紙のイメージのように自然が美しい山岳地帯です。その風景に和菜は時々ほっとし、昔の日本の風景のようで癒されもします。
 「スタンドバイミー」でもアメリカの大自然の山や森、渓谷などが冒険の舞台となります。本来、人間が豊かに生きるにはこのような自然が必要です。しかし自然の美しさとは何の関係もなく突如として死や暴力は持ち込まれるから非常にショックを受けるのです。
 そして、その死と暴力に直面するところも重なります。和菜は紛争地域に視察に行き、そこで崩壊した村や、難民となった人々、爆撃で親を亡くした少女などに出会います。

 「スタンドバイミー」でも、4人の少年は死体を探しに冒険へ出かけ実際にそれを発見する。死というものの理不尽さ、人間が暴力を振るうことの矛盾。正しいと思っていた大人のずるさ。それらの前で、自分はまだ子どもで無力だということを実感してしまうところも共通しています。

 国も時代も異なる作品ですが、根底にあるものは普遍的なのでしょう。そして自分の無力さに直面した時の若者をどう描くかが、濱野さんの一貫したテーマでもあると思うのです。
 挫折、大人の矛盾、災害、身近な人の死など、若者達にはどんな時代にも困難が降りかかってくる。しかし、それでもしたたかに小さくても自分なりの希望を見つけることこそが、生きるということなのだと繰り返し描いていると思うのです。

 読み終わった後、『すべては平和のために』というタイトルの意味が違って聞こえてきます。美しく見えた言葉が正反対の皮肉に聞こえてくるのです。それは、尊敬していた兄への見方が180度かわってしまうことでも象徴しています。青春小説という入口から入り、和菜と一緒に旅から帰ってくる頃には、現代の様々な問題について考えるようになっているはずです。

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お盆で“こわい”?

お盆を過ぎましたが、実家に帰省した人もたくさんいたのではないでしょうか?

 

実家に帰ると、その土地その土地の方言があって、

それに戻って話したりするとなんだか落ち着いた気持ちになったりします。
でも、方言はだれもがわかる言葉じゃないんですよね。
僕の実家は北海道です。
言葉のイントネーションと発音も微妙に違うのですが、
単語でいくつか、標準語の人がまったく意味がわからないものがあります。
ちょっと『秘密のケンミンSHOW』っぽいですが紹介してみます。

 

カクショク=
食パンのことです。食パンが四角いからこういうのでしょうか?

 

ざんぎ=
鳥の唐揚げのこと。最近は居酒屋のつぼ八などで全国的にも広まったかもしれません。中国語から来ているとか、愛媛県今治では鳥の唐揚げを「せんざんき」と言うらしくそこから来ているなど諸説あるようです。

 

いづい=
痛いじゃなくて、なんとなく気になる感じ。「靴の中に小石が入って、なんかいづい」みたいな感じです。

 

こわい=
恐ろしいじゃないんです。体がこわばって、つかれて、だるい。みたいな感じです。
熱が出た時なんかに「いや〜体がこわくなってきた」と使います。

 

なげる=
捨てるの意味です。なので、ゴミは捨てるじゃやくて、ゴミを「なげる」といいます。

 

てぶくろを「はく」=
東京に行ってはじめて気がつきました。てぶくろは、「はめる」ものなんですね。
はくのは靴とか靴下とか、足に関するものですからね。でも、北海道では、手袋はなぜか「はく」なのす。

 

とんしゃ=
タクシーの事。なぜかはわからないです。高校生くらいの時にかっこつけて、タクシーの事をこう呼んでいました。当時の若者だけの言葉かもしれません。

 

このような言葉を、標準語だと思っていて、
東京でうっかり口にして「えっ?」と思われたこともしばしばです。

 

以上の言葉をすべて使って文章をつくるとどうなるか?
ちょっとやってみます。

 

「“とんしゃ”を呼ぶから、家の前で手袋を“はいて”、雪“なげ”してたら、なんか体が“こわく”なってきたから、熱あるかもしんないから元気だそうと思って、“カクショク”と“ざんぎ”食べたら、なんか口ん中が“いづい”な〜と思ってみたら鶏肉が挟まってたさ」

 

こんな感じでしょうか?
方言ははずかしいけど、なんか落ち着く不思議なものです。